これまでのあゆみ・デビュー編


 私が競馬の世界に一歩踏み入れたのは1996年の1月、とある友人が「ダービースタリオン3」を貸してくれたことに始まる。高校3年も終わる頃で、同年代に現役時代のタマモクロスやオグリキャップを語る奴もいる中とても早いデビューとは言えないが、親がギャンブルをしない家庭環境で育ち、それまで日曜日に、アタック25はあっても競馬中継を見た記憶はないくらいだから仕方なかったと思う。
それよりも、
受験勉強真っ盛りの時期に新世界到来!を思わせるゲームを貸してくれる友人がナイスだ。
早速攻略本を自ら購入して配合を考える日々に突入。浪人したが、今ではその友人に感謝する思いで一杯である。

 こうしてありがちなダビスタデビューを果たした私だが、やり込み効果で、数ヶ月もすると競馬のレース体系、過去の名馬の名前(これは1文字間違えて?)を覚えまくれていた。
信長の野望や三国志のシリーズでも思うことだが、ゲームを甘く見てはいけない。
(「武安国」とか、なんで覚えてるんだろと思ったりしませんか?しませんか)
競馬の言葉や情報があればあるほど、友達との話題やテレビ中継の解説者の話にがっついていけるようになるから、加速度的に言葉や情報がたまっていく。
テレビ中継ではその年の皐月賞(イシノサンデー)、天皇賞春(サクラローレル)を見た記憶がある。歴史に残る阪神大賞典を見れたのは良かった。これがナリタブライアンかーと思った。ナリタブライアンはすぐに引退し、私はまだ金も賭けず大した予想もせず、予備校に通いながらダビスタばかりやっていた。

 1997年、日本ダービー。今や世間的にイマイチな印象のこのレースが、私の競馬場デビューとなる。
クラ友と見に行ったのだが、混雑甚だしい昼から行って、しかも2階席の階段(上の方)から背伸び見をし、馬券は本命シルクライトニングが除外の返還。私的にも印象の薄い1997日本ダービーだった。特に触発されず、折も折、夏にはPSのダビスタが出て、私は馬券よりもそっちに走っていた。
やはり心の底で思っていたのだろう。
「競馬で儲かるはずがないよ!」「破滅の道へまっしぐらなんじゃないの?」と。
しかし、運命には逆らえないのか、しっかりと競馬街道を歩んでいく私。所属していた部活にも競馬をやってる男がいて、他に競馬を知ってる奴もいないので、なんとなく私たちは競馬ワールドを作っていた。タイキシャトルの勝ったマイルCSについて語ったり、彼の思い出の馬、トウカイテイオーのビデオを借りたり、ギャロップを貸してもらったり。そんな流れで私たちは翌年、皐月賞を見に行くことになった。

 1998年4月19日快晴。朝の10時頃に待ち合わせて、競馬場に着くなり外ラチ沿いの最前列に新聞で場所取りをする。第4コーナー側の端の端。芝生の上に敷物を敷いて腰を下ろせば、もうピクニック気分。友人(N)が持ってきたデータ本でメイン予想をしながら、平場のレースが始まると、立ち上がって勝負どころの叩き合いを観戦し、ちょっと騒いでまた座る。そのゆったりした時間の流れもさることながら、競走馬・競馬の美しさに特に心を揺さぶられた。日光によって、馬体の艶が目立ったのが良かったのだと思うが、それに勝負服や帽子が鮮やかに映え、まさに1R1Rがひとつのショーに見えた。返し馬や最後の直線、馬たちの駆ける地響きががまた一興。テレビと全然違う。
(競馬初心者の方は、是非、競馬場へ行って、馬場のまん前まで出て行って観戦することをお奨めしたい)
メインの皐月賞では、ファンファーレのときの波湧き立つ拍手に参加し、4コーナーでは目の前を大外大まくりで上がっていくスペシャルウィークに威風を感じ(すごく近くに見えたので大迫力だった)一流馬同士の長く激しい叩きあいにしびれた。
結果は我らが軸馬セイウンスカイが優勝、2着にキングヘイローが残ってくれたおかげで私はデビュー2戦目にして万勝ちを達成。競走馬の美しさ、競馬の迫力、的中の喜び、すべてを満喫することができたのだった。

 忘れられないレースにちょっとした彩りを添えるエピソードをひとつ。
この皐月賞ではスペシャルウィークが一番人気で友人Nのデータでも十分だったが、Nは単勝が2倍をきる断然人気に抵抗を感じていたようで、馬体重+10キロの発表で軸をセイウンスカイに設定することにした。私もセイウンスカイという名前と、灰色っぽい茶色の、なんともいえない毛色に惹かれていたので大賛成だったのだが、それでもスペシャルとの馬連一番人気を押さえると手広くはいけない。そこでNは次なる行動に出た。
おもむろに新聞を持ち上げると、一番端、
8枠18番スペシャルウィークの馬柱欄をきれいに破り捨てた!!
「これで17頭立てになっただろ」笑うN。
痛快な出来事に私たちは活気づいた。
セイウンスカイを、「まだソエだったのにこの成績を出してきた」という適当な理由をつけて絶対の本命に仕立て上げ(もう未来の最強馬!)、これでセイウンスカイが来て外したら目も当てられないので、もしもの万が一来るかもしれない馬まで13点も流し、Nが「オレの競馬歴にかけて、これは絶対こない」と言った3頭は切った。ケイエスグッドワン、シャインポイント、ウィニングラック。この選択には今の私も同意するぞN。
こんな経緯で、4コーナーのスペシャルウィークの大物らしいまくりにびびったものの、私のビギナーズラックと、Nの馬柱切り捨ての術でスペシャルを完封したレースとして思い出に残ることとなった。

 この皐月賞が馬券競馬道へのきっかけになったのだが、これですぐ買いに走ったわけでもなかった。その後Nと喧嘩したのも悪かったが、Nが皐月賞以降に示してくれた、データによる馬券考察に面白さを感じたのが原因だった。結果はテレビや雑誌でチェックし、自作のデータ予想をするようになった。データといっても、今の自分から見たらなにやってんだと思う程のセンスのないものが多かったし、目指す方向も間違っていたのだが、(例えば、全てのレースで使える普遍的な必勝法を目指すとか。距離やコースや展開でレースの見方は変わります)競馬をわかっていないという自覚もあったので、予想はしても馬券は買わず、十分当たると判断できてから、実行に移ろうと思っていた。
98年の馬券成績は皐月賞後、ダービー、菊花賞でセイウンスカイの単複1000円ずつを買っただけで終わった。

 修行時代の試行錯誤データについて。
最初に私が作ったのは「10項目総合データ」。格、距離適正、上がり3ハロン、疲労度など10項目を数値化して期待馬を探すというものだったが、あまり当たらず、なによりも面倒だったので没。
次に「エネルギーデータ」。サイレンススズカがいた頃だった(金鯱賞見ました。ぶったまげでした)ので前で競馬する馬と後ろで競馬する馬とを、位置エネルギーと運動エネルギーで数値化し、能力を加え評価(笑)。駄目駄目。
「馬等級データ」。いろいろな条件を各馬見ていって、該当するポイントを+−して評価していく方法。調整のために項目が多くなって結局面倒くなり、99天皇賞秋を外した時点で終了。
「エックスオーデータ」別名×○データ。これが私の美術館創設時代のデータ馬券方法の基礎になっていく。
方法は、まず来ないタイプの馬をいくつかの条件で切っていって、残った馬をまたいくつかの条件で判定して、○が一番多かった馬から、×がない馬まで流すというもの。今でも、宝塚のエメラルドデータ3本立てのひとつを担っていたり、ダービー、オークス、安田記念にも一部使われている。ここで得られた馬柱の見方から、一時代を築いた「四天王データ」、本流「馬滅法」などへつながっていく。

 自作データを検証してきた感想。
「これだけの集中力を勉強(仕事)に生かせれば、なんだってモノになるだろうにナァ」
競馬ファンの誰しもが思っていることではないだろうか。


●これまでのあゆみ・スカイ編